ギャラリー

野鳥の会
昭和9年6月3日に須走の日野屋林で第一回野鳥の会の探鳥会が開かれました。
日本各地より、中西悟堂氏のさそいを受けた有名人たちが米山館に集結し、探鳥会が開かれました。
写真はかなり痛んではいますが、北原白秋など誰もが知っている名前が見受けられます。
須走の富士講ギャラリー
特別展 渋谷の富士講-富士への祈り-に掲載された米山館の写真です。
富士山は古くから人々の信仰対象となってきました。 そうした中で、享保18年(1733)食行身禄という行者が、米価高騰などにより苦しんでいた庶民の救済、世直しを願い、富士山で断食して果てます。
その知らせが江戸に届くと、身禄の評判は高まり、彼の弟子たちによって、身禄の富士信仰の教えが広められ、江戸八百八講といわれるほど多くの富士講が作られました。
この講では「先達」と呼ばれる人をリーダーとして、1年に1度、聖地である富士山へ登拝しました。
また彼らは、富士山に登拝できない人たちのために、富士塚というミニチュアの富士山を作りました、千駄ヶ谷の鳩森八幡神社にある富士塚はその1つで、都内で現存する最古のものです。
富士山
高田荘三氏が撮影した、富士山の写真です。
野鳥
米山館の主人・米山恒久が撮影した、野鳥の写真です。
















明治時代の風景

明治40年夏 富士登山記念
客人と共に当家息子達(長男廣樹・左端)(次男帰一・左から二人目)も登山しました。
写真右下部に、軽便馬車鉄道のレールが見えます。

明治~大正初期の軽便馬車鉄道
軽便馬車は御殿場―須走―山中湖―富士吉田までをつなぐ住民の貴重な交通手段でした。(篭坂峠上附近)
当時の写真は、これ以外のものは見当たらない、珍しいものです。(大正初期)